串かつの新世界日本橋店を初めて知る方へ

私たちは口の中で、あらゆる角度からひとつの料理を味わい尽くそうとしているのである。さらに興味深いのは、口内でもっとも神経が行き届いているのが、舌根と呼ばれる舌の付け根の部分だということである。
この話を聞いたとき、私は喉ごしの意味がわかったような気がした。舌と上顎で味わった食べ物は、最後に舌根を通過して、喉、食道、胃へと運ばれていく。
その最後の通過点である舌根にもっとも神経が集中しているとなれば、なるほど。喉ごしがきわめて重要になるのも当然だろう。
別な言い方をすれば、料理の最大のおいしさは、口内で味わったものを飲み込む直前の一瞬にあるといってもよい。つまり、料理を味わい尽くすためには、よく噛み、よく舌と上顎を使い、そして心して飲み込むということになるだろうか。
まあ、ほんとうにおいしい料理に出会ったときというのは、人は誰でも無意識にこうやっているはずなのだが。ところが、現実はそうではない。

現代人は、確実にものを噛まなくなってきている。いまから10年ほど前、パリの地下鉄でこんな広告を見たことがある。
バケットという硬いフランスパンの写真に歯がついており、「パリ市民のみなさん、もっとバケットを食べましょう」といったコピーがつけられている。「さすがはフランス、なんと愛国心に満ちたポスターだ」と一瞬、感心したのだが、これは、パリの製パン組合がバケットの消費増を狙った広告などではなかった。
おそらく、スポンサーは歯科医の組織か厚生省のようなお役所だろう、じつは「もっと噛みましょう」というキャンペーン広告だったのである。フランスでは、アメリカ資本のファストフードやハンバーガーショップが急増して、バンズのような軟らかいパンが流行ったため、硬いバケットを食べない若者が増えたのだという。
その結果、すっかり噛むことがおろそかになり、若者の間で歯槽膿漏などの歯周病が増えた。そこで、このキャンペーンということになったわけだ。
日本でも、事情はフランスとまったく同じである。考えてみれば、この30年、軟らかいファストフードだけでなく、レストランや家庭料理でも、ハンバーグなどの軟らかいメニューが人気である。
主食のコメにしても、昔は玄米でよく噛んだものだが、いまではほとんど姿を消している。では、現代人は、どれくらいものを噛まなくなったのか?以前、私の学校の生徒たちと、こんな実験をしたことがある。
生徒をふたつのグループに分け、それぞれふつうの幕の内弁当を食べてもらう。ただし、ひとつのグループは普段どおりに食べていいが、もうひとつのグループには、普段だったら飲み込むところをよく噛んで食べるよう指示しておく。
こうして噛む回数を比較したところ、よく噛んで食べるよう指示したグループは、そうでないグループより3倍も咀嚼回数が多くなることがわかった。現代人がものを噛まなくなったのは、その顔の形を見てもよくわかる。
最近は、小顔なるものがブームというが、いまどきの若者には顔が小さいだけでなく、顎も未発達という人が多い。それだけ、彼らはものを噛まなくなっているのである。
しかし、ものをよく噛むことは、すでに述べたように、料理をしっかり味わうためには絶対に欠かせないことである。ものをよく噛まなければ、「口の中にとろっと広がる旨さ」も「しゃきっとした歯ざわり」も「噛めば噛むほど味がある」ということもわからない。

これは、ほんとうに不幸なことである。それだけではない。
ものをよく噛めば、それだけ唾液が出て、消化がよくなる。消化がよくなれば、食欲もわくし、内臓の負担も減って健康になる。
さらに、噛むという行為は脳を刺激するため、頭だってよくなるのである。ものをよく噛むということは、料理を味わうためだけでなく、あらゆる意味で大切なことである。
パリの歯医者さんではないが、私たちはもっと歯を大切に、そして顎も丈夫にしなければならない。初めての街を歩いていて、たまたまある店の前を通りかかったとき、ふと「この店は旨そうだな」と思うことがある。
店構えが、なんとなく旨そうなのである。なんだか私を手招いているような気がして、空腹時なら躊躇なく店に入る。
こうした場合、私の勘はたいてい当たってきた。少なくとも、「なんだ、これは」と裏切られるようなことはめったになかった。
旨い店には、ある共通点がある。私は、新規にできた店より、ある程度歴史のある店が好きになる。

木造造りで、玄関から入った土間からは、なんとなく苔むしたような匂いがし、さらに畳敷きの座敷に鴨居が下がっており、よしず張りの隙間から織り目のような光が射し込んでいる。こういう店に入るとホッとして、出される料理にも期待感が湧いてくる。
一言でいえば。練れた雰囲気のある店ということになるだろうか。
2代、3代とつづいている老舗というのではなく、こういう店は「旨いものを出すぞ」という顔をしている。そういう料理人の自信と心意気が、店構えにあらわれるのである。
浅草・雷門の前にある並木藪蕎麦も、その店構えに惹かれて何度も足を運ぶ店である。とくに真夏の暑い昼下がり、店の前が打ち水されたその風情が、私はたまらなく好きである。
昼の混雑が一段落して、店内に落ち着きが戻ったころ、夕暮れ前の強い夏の光を眺めながら、ひんやりした店内でお酒を飲んだり、蕎麦を食べるのは、まさにこの店ならではの楽しみといえるだろうか。もちろん、新蕎麦が食べられる秋から冬にかけてもいい。
「初冬の、鴨なんばんが出はじめる頃の、平日の午後、ちょっと客足の絶えた時間に、並木の『Y』の入れ込みに座って、ゆっくりと酒をのむ気分はたまらなくよい」とは、Iさんの一文だが(『S』H社)、たしかに、新蕎麦が出る頃のこの店の鴨なんばんは、まことに旨い。


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